亀山城 |
亀山城の主要部は大本宗教教団の施設になっている。城跡見学希望を事務室へ申し出て、城跡の説明を受けてから、三の丸跡にある万祥殿でお祓い受けると、二の丸・本丸跡の見学ができるが、天守台は大本教の「聖地」のため立入禁止です。事務室でパンフも頂き、石垣は3段目までが本物で、あとは大正8年に全て積み直したとのことなど丁寧に教えて貰った。内堀も見られるが、ここも大本教団が一部整備してくれたらしい。教団の北側に堀(南郷池)が残り、堀沿いに西へ歩くと鯱のレプリカが1対ある。この付近は南郷公園になっていて、城址碑もあった。 |
JR山陰本線(嵯峨野線)「亀岡駅」から南へ約400mの大本教本部が城跡で、参拝者専用駐車場があります。 |
天正5年(1577)、織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が、丹波攻めの拠点として亀山城を築城した。光秀は亀山城を拠点に丹波・波多野氏などを攻略したが、天正10年5月、信長に中国出陣を命じられると、安土城から亀山城に戻り、6月1日に亀山城を出発し、京都本能寺を攻め信長を自刃させた(本能寺の変)。光秀は山崎で秀吉に敗れ、亀山城は信長の子で秀吉の養子である秀勝に与えられた。天正19年、小早川秀秋が亀山城主となり、城を大改築した。慶長14年(1609)、岡部長盛が3万2千石で亀山城主となり、翌慶長15年から山陰の要として亀山城を重視した徳川幕府は、天下普請で大修築を行なった。岡部氏の後、城主はめまぐるしく替わり、寛延元年(1748)松平信岑が丹波篠山から5万石で入城し、以後松平氏が8代続いて明治を迎えた。明治2年、伊勢亀山と紛わらしいため「亀岡」と改名した。 |
別名 | 亀岡城、霞城、亀宝城 | ||
所在地 | 京都府亀岡市荒塚町 | ||
遺構等 | 曲輪、天守台、石垣、堀、碑 | ||
現状 | 大本教教団 | ||
築城年 | 天正5(1577) | ||
築城者 | 明智光秀 | ||
歴代城主 | 明智、形原 | ||
形式 | 平城 | ||
訪城日 | 2006/10/7 | 感想 | ○ |
かめやまじょう |