江戸時代のはじめ、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休息目的で、街道の各所に設けられた館のうちの1つで、近江では柏原御殿と野洲の
永原御殿、水口の水口御殿を合わせて「近江三大御殿」と称されてきた。天正16年(1588)徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息した。以後中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和9年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築した。以後御殿番をおいて守備してきた。その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少し、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。家康の頃から約百年間、殿舎新築から65年間の歳月が流れた。この間、記録にあるだけのものを合わせて14回使用されている。元禄4年の記録では総敷地壱町九畝余、その他御守殿跡一畝八歩とある。勝専寺の門が御殿の門と伝えられている。