城跡の地図
永正初期(1505)頃、長野尚業が築城し、その子憲業が増強、更に業政が継いだ。業政は上州侵攻を目指す武田信玄の軍勢に対し、西上州の武将をまとめて奮戦したが、永禄9年(1566)後を継いだ業盛の時、落城した。箕輪城を落とした武田信玄は、内藤昌豊、その子昌月を城代とし、天正10年(1582)武田氏滅亡まで西上州を支配した。武田氏滅亡後、織田信長が家臣・滝川一益を厩橋城に入れ、箕輪城をその支配下に置いた。しかし同年、本能寺の変により信長が没し、滝川一益は伊勢へ撤退し、代わりに北条氏邦が城主となった。天正18年、徳川家康の関東入国と共に、重臣の井伊直政が12万石で箕輪城主となった。武田、北条も城の改修を行ったが、井伊氏は大改修を行い、城下町も整備した。しかし、慶長3年(1598)、直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城となった。
箕輪城
まず縄張図付説明板や虎韜門の説明、そして白川口埋門を見た。入った途端、鍛治曲輪の石垣が出迎えてくれたが、鍛治曲輪は藪だらけ。各所に案内の石碑や説明板があり分かりやすい。三の丸門跡と石垣もステキで、二の丸は発掘調査中の所があり、石垣がむき出しているのが見えたり、礎石もよく見られて良かったです。それより、二の丸と郭馬出の間までつながっている大堀切に圧倒され、人間業じゃない気がして、本当に人力で掘ったのか?と疑う程すごく広くて深いです。しばし呆然と佇んで魅入ってしまいます。この大堀切を見ながら、しっかりした土橋を通って郭馬出へ。ここでも整備された礎石が見られ、発掘調査で出てきた石垣の石が、無造作に置かれていました。そして、これまた高い土塁。ここまでくると、土塁と堀の芸術作品に感動しっ放しです。どこへ行っても堀がこれでもかーと言う位に深く広い。その後、木俣〜法峯寺曲輪北側〜郭馬出〜二の丸〜本丸〜御前曲輪〜新曲輪へと行き、そこから丸馬出と稲荷曲輪を見て、帰りは堀底を通って蔵屋敷を見、最初に来た鍛治曲輪、駐車場へと戻りました。すっかり大満足で、遺構を思い出しては感嘆の声をあげ、暫し夢心地な気分でした。
【感想・メモ】
TOPページへ
別名
所在地 高崎市箕郷町西明屋
遺構等 曲輪、堀、土塁、虎口、石垣、井戸、土橋、碑、説明板
現状 公園
築城年 永正初期(1505)頃
築城者 長野業尚(尚業)
歴代城主 長野
形式 丘城(比45m)
訪城日 2008/3/29
【道案内】

【歴史】
みのわじょう
県道26号「東明屋」信号を南へ入り(案内有)、400m程南下した道沿いに箕輪城搦手口の案内があり、ここを右折すれば城跡の二の丸駐車場へ行けますが、私は「大手虎韜門口」駐車場に車を停めここから登りました。
縄張図(現地説明板より)