城跡の地図
田丸城
別名 玉丸城
所在地 玉城町田丸字城郭
遺構等 石垣、天守台、曲輪、碑、説明板
現状 城山公園、玉城中学校
築城年 建武3(延元元、1336)
築城者 北畠親房
歴代城主 北畠、稲葉
形式 平山城
訪城日 2002/12/7
【道案内】


【感想・メモ】
たまるじょう
【歴史】
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縄張図(現地説明板より)
玉城町役場の西側一帯が城跡で、役場の駐車場に車を停めました。JR参宮線「田丸駅」から西北に約500mのところ。伊勢自動車道「玉城インター」を下り、県道65号を北上して、JR参宮線を陸橋で渡り、渡り終わってすぐの信号を右折した正面が城跡です。
役場の正面に村山龍平記念館があり、2階にちょっとした歴史資料も展示してあります。役場の外側から見ると、水堀に大手門石垣が、その向こうにも、石垣群が見えます。そして、中へ入っていくと、城跡碑と縄張図や城の略史の案内板が。とにかく、田丸城は素晴らしい!の一言。三の丸だった所に玉城中学校があるものの、それ以外は、ほとんど遺構が残っていると言った感じ。内堀も水をたたえており、天守台、本丸、北の丸、二の丸にも石垣が残っています。中学校のグランドから見た方向からでも、石垣がある!また、富士見門という城門も移築されています。とにかく、どこから見ても石垣があり、あまりの嬉しさに写真撮りまくっちゃいました。城跡内を一周しても、尚、名残惜しく、車で、ゆっくり外堀も一周して見て回りました。
建武3(延元元、1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が築城し、南朝の拠点とした。一之瀬城を根拠に熊野海賊を支配していた愛洲太郎左衛門を南勢の守護とし、弟・愛洲三郎左衛門宗実が田丸城を守るようになった。延元2年、足利氏の将・畠山高国が田丸城を攻めたが、宗実が防戦して北朝を破った。延元4年、後醍醐天皇が崩御すると、北朝の攻撃が頻繁になり、康永元年(興国3、1342)落城した。以後、南北朝の争奪が続いたが、南北朝統一後は北畠氏の所領となった。元亀2年(1571)、玉丸中務少輔直昌が城主となったが、天正3年(1575)、北畠氏の養子となった織田信雄が大河内城を廃して、城を田丸に移した。田丸城に居た直昌は岩出城に移った。天正8年、田丸城が焼失したため、信雄は松ヶ島に城を築いて移った。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで家康に味方した稲葉道通が田丸に本城を移し、大改修し、子・紀通が継いだが、摂津国中島へ転封となり、元和5年(1619)、紀伊領となった。
富士見門