芥川山城
別名 芥川城、原城、三好山城
所在地 大阪府高槻市原
遺構等 曲輪、土塁、堀切、石垣、土橋、碑、説明板
現状 三好山(山林)
築城年 永正12年(1515)
築城者 細川高国
歴代城主 能勢氏、細川氏、芥川氏、三好氏
形式 山城(比120m)
訪城日 2011/2/12 感想
登城口から10分程登ると東郭の郭群で土塁を伴い、郭内にお墓があったり、通路の南側に竪土塁が見えたりします。この東郭の西側に立派な土橋があり、その先の通路左手フェンスの中へ入ったピークが出丸です。出丸の腰曲輪の南東隅には大きな石で積まれた石垣があります。この南尾根へ下った先に堀切が、また南西尾根に下った先には連続堀切があります。フェンス外の通路へと戻り、西へ進むと「史跡城山城跡」の石碑があり、更に西へ進んだ山頂が主郭となります。主郭の北西に堀切があり、その先の西郭の先にも堀切があります。また、主郭の南西尾根付け根にも堀切があり、石積みも見られます。この下方の南郭にも立派な堀切があり、出丸西にあった「「史跡城山城跡」石碑から下山すると通路右手に石垣が見られます。大規模な山城で至る所で遺構が楽しめる見応えのあるお城です。
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【感想・メモ】
城跡の地図
永正12年(1515)管領細川高国が築城し、家臣能勢頼則が城主となり、能勢氏が3代続いた。大永6年(1526)細川高国と細川晴元の間で争いが起き、高国方についた芥川山城は安威茨木福井・三宅の諸城と共に降伏した。天文2年(1533)細川晴元が芥川山城へ入ったが、天文8年以後、晴元は三好長慶と確執を生じ芥川山城を両者が奪い合った。天文16年、長慶の手に落ちた芥川山城には芥川孫十郎が城主として入ったが、この孫十郎が謀略を計ったため天文22年長慶は芥川山城を攻め落とした。以後、長慶父子が居城とし、摂津における拠点としたが、永禄3年(1560)長慶は飯盛山城へ移った。永禄11年、織田信長の摂津侵攻で芥川山城は落とされ、和田惟政が入った。翌永禄12年、和田惟政は戦功により与えられた高槻城へ移り、この頃芥川山城は廃城となったと思われる。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
『城巡礼』東京地図出版編集部編/発行

東郭の西の土橋

【歴史】

本丸


【道案内】
登城口の地図
あくたがわやまじょう
第九中学校から南側道路を300m程西進して右折し、40m先を左折します。400m程北西へ進んで老人ホーム(高槻黄金の里)の角を右折し、200m程北上した右手が登城口です。この付近に1台何とか駐車できますが、離れた場所から歩くことをオススメします。

石垣

登城口

出丸南東下の石垣

堀切